1982-12-09 第97回国会 衆議院 本会議 第5号
そして、あのときに日中関係のために田中内閣を支持しよう、田中内閣を出現させよう、そう考えまして、櫻内代議士、大石武一代議士あるいは野田武夫先生や中村梅吉先生等とは、かなり早い時期から首脳部の間で相談をしておったのでございます。そして、いよいよ七月の改選の時期になりまして、私たちの同志は打って一丸となって田中政権を実現させたのです。
そして、あのときに日中関係のために田中内閣を支持しよう、田中内閣を出現させよう、そう考えまして、櫻内代議士、大石武一代議士あるいは野田武夫先生や中村梅吉先生等とは、かなり早い時期から首脳部の間で相談をしておったのでございます。そして、いよいよ七月の改選の時期になりまして、私たちの同志は打って一丸となって田中政権を実現させたのです。
○岩佐委員 これまでの法案では、たとえば前回昭和四十四年度提出の法案の審議に当たっては、当時の野田武夫自治大臣は、地方公共団体は、この改正法の施行を契機として、すべて当然に定年制に関する条例を設けなければならないものではなく、あくまでも当該団体における人事管理の実情から見て、定年制を必要と認める場合において、条例で定年制を設けることができるとしたものでありますと答弁をされております。
こういうふうに当時の野田武夫総務長官が通達を出しているんですね。またそれを受けて文部事務次官内藤誉三郎氏も同じような趣旨の通達を出している。要するにオリンピックに限定される。いまおっしゃったように、青少年の育成というのは広い意味から見ればオリンピック精神かもしれません。
私に前科があるそうで、地方公務員の定年制法案、私トップバッターで地方行政でやり合って、野田武夫自治大臣、長野行政局長時代に、審議をとめて二日座っていたら廃案になってしまいました。
○中曽根証人 そのことは、たしか四十七年の二月ごろだったと思いますが、野田武夫先生から、萩原さんが応援したい、あるいはおまえとよりを戻したいというような話がありまして、一回萩原邸へ行ってみないかという話がありました。
中曽根と彼の師匠に当る野田武夫が目黒の自宅にやってきたのは47年5月の下旬であった。そのとき中曽根は、「各派とも立っているからおれも立つ」といっている。「そうしないと〃草刈場〃になってしまう。また、知らん顔してると金でやられてしまう、だから金を貸してくれ。」つまり、立候補するといいながら結束を固め、金でつなぎとめ、ぎりぎりのところで高く売るという戦術である。
そしてこっちの方は中村梅吉さんとか私とか中曽根さん、それから櫻内さん、大石さん、山中貞則さん、野田武夫さん、それはぴしっと記憶はきわめて定かなんです。それで財界の人から佐藤三選に中曽根派をまとめてくれぬかという結論――いろいろありましてそういう結論です。
私は、野田武夫さんが自治大臣のときに、あなた方定年制法案をお出しになったからトップ質問でその問題から入りまして、とうとう答弁できなくなって、二日間私は地方行政の質問席にすわっていたんですよ。それでつぶれてしまいましたけれども。 だから、そう簡単におっしゃられても困るのです。相手があってやっているんですから。だから正しくこの法律はやはりお考えいただきたいんですよ。
私は、地方行政委員会に頼まれて、トップバッターを引き受けて、二日間この委員会をストップさして、野田武夫さんがその当時の自治大臣で、岡山県知事か広島県知事か何かになった例の長野さんが行政局長で答弁できやしない。私は、二日間質問席に座っていて、とうとうこれはつぶれてしまったという経過があるじゃないですか。
野田武夫さんが大臣、岡山県知事におなりになった長野さんが行政局長。答弁おできにならぬから私は二日間質問席に座っていた。そうしたらつぶれた。それだけのことだ。地方公務員法で法律上明確になっているものを勝手に解釈変えてはいけませんよ。法律条文にないものはないんだ。均衡原則なんというものは二十四条にない。どこに均衡と書いてありますか。教特法は別だ。それは「当分の間」だ。
野田武夫さんが大臣であった。その事実をお認めになった。かくて定年制法案は通らなかった。そうでしょう。知らないのじゃない。ラスパイレスなんという問題は、おたくの方で一番詳しいのは課長補佐でしょう。山崎さんでしょう。山崎宏一郎さん。地方公務員の給与水準についてラスパイレス指数をどう見るか、全部説明なさっている。四に「ラスパイレス指数の限界」とここにある。
それではお尋ねいたしますけれども、四十四年の一月六日に、当時の大蔵大臣と、なくなりました当時の自治大臣野田武夫さんとの間に覚え書きがあります。その覚え書きの第一項に「当分の間、相互に、地方交付税の率の変更を求めることはしないこととするとともに、」と書いてあります。大臣にお尋ねしたいのでありますが、覚え書きは四十四年でありまして、ことしは四十九年でありますから、五年ぐらいたっている。
長 船田 中君 副 議 長 長谷川四郎君 事 務 総 長 知野 虎雄君 ————————————— 委員の異動 六月十六日 辞任 補欠選任 寺前 巖君 松本 善明君 同月 辞任 補欠選任 松本 善明君 寺前 巖君 ————————————— 本日の会議に付した案件 議員野田武夫君逝去
————————————— 衆議院は多年憲政のために尽力しさきに外務委員長石炭対策特別委員長の要職につきまた国務大臣の重任にあたられた議員正三位勲一等野田武夫君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます —————————————
まず、議員野田武夫君逝去の件についてでありますが、去る七日、熊本県第一区選出議員野田武夫君が逝去されました。 ここにつつしんで哀悼の意を表します。 野田君に対する追悼演説は、本日の本会議において行なうこととし、演説者は、日本社会党の川村継義君にお願いいたしたいと存じますが、御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○川村継義君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員野田武夫君は、去る六月七日逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。 先生は、五月半ば、からだの不調を感じて入院されましたが、病は以外にも重く、治療に専念するのやむなきに至りました。
昭和四十七年六月十六日(金曜日) ————————————— 議事日程 第三十四号 昭和四十七年六月十六日 午前十時開議 第一 学校教育法等の一部を改正する法律案 (文教委員長提出) ————————————— ○本日の会議に付した案件 川村継義君の故議員野田武夫君に対する追悼演 説 裁判官訴追委員の選挙 公正取引委員会委員任命につき同意を求めるの
議員野田武夫君は、去る七日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。 同君に対する弔詞は、議長において去る十二日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
多年にわたり、当委員会の委員あるいは理事として委員会審査のために御尽力せられ、またその間二度にわたり外務委員長として御活躍なさいました委員野田武夫君が去る七日逝去されました。まことに痛恨のきわみであります。 ここに哀悼の意を表し、御冥福をお祈りするために黙祷をささげたいと存じます。御起立をお願いいたします。 〔総員起立、黙祷〕
補欠選任 石井 一君 園田 直君 北澤 直吉君 古井 喜實君 同日 辞任 補欠選任 園田 直君 石井 一君 古井 喜實君 北澤 直吉君 同月七日 辞任 補欠選任 勝間田清一君 楢崎弥之助君 同日 辞任 補欠選任 楢崎弥之助君 勝間田清一君 同日 委員野田武夫君
決算委員会調査 室長 池田 孝道君 ————————————— 委員の異動 五月二十六日 辞任 補欠選任 阿部 文男君 小平 久雄君 同日 辞任 補欠選任 小平 久雄君 阿部 文男君 同月三十一日 辞任 補欠選任 阿部 文男君 倉成 正君 笠岡 喬君 野田 武夫
通商産業省公益 事業局原子力発 電課長 武田 康君 外務委員会調査 室長 吉岡 俊夫君 ————————————— 委員の異動 五月二十六日 辞任 補欠選任 木村 武雄君 北澤 直吉君 同月三十一日 辞任 補欠選任 田村 元君 浜田 幸一君 野田 武夫
中島源太郎君 中島 茂喜君 中曽根康弘君 中村 梅吉君 中村 弘海君 中村 拓道君 中山 利生君 中山 正暉君 永田 亮一君 永山 忠則君 灘尾 弘吉君 南條 徳男君 二階堂 進君 丹羽 兵助君 西岡 武夫君 西村 直己君 西銘 順治君 野田 武夫
午前十時二十五分開議 出席委員 委員長 櫻内 義雄君 理事 青木 正久君 理事 石井 一君 理事 坂本三十次君 理事 正示啓次郎君 理事 永田 亮一君 理事 山田 久就君 理事 松本 七郎君 理事 西中 清君 理事 曽祢 益君 宇都宮徳馬君 小坂徳三郎君 田川 誠一君 田中伊三次君 西銘 順治君 野田 武夫